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高見和成さんのことを突然思い出す

書籍, 趣味その他|2009/09/13 posted.

本日2本目の記事
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市の図書館で「雪の谷 山の声」(悠々社)という本を見つけた。Photo1994年発行。高見和成著。
山をやっていた人なら誰でも知っている。特にヒマヤラ関係の登山に興味のある人なら。
興味のない人に彼の登山暦を紹介してつまらないだろうし、理解もできそうにない。
彼を知っている人なら間違いなく、代表的な登山暦はすぐに思い浮かべるだろう。
夜中の1時に目が覚め、朝日が上がるまでに一気に347ページ読んだ。
この本は "1993年1月伯耆大山で雪崩で流されながらも、厳冬の川を下り、四日後、自力で麓にたどり着いた"遭難騒ぎの後に出版されたもの。
雪山から"厳冬の川を下る"ということがどういうことなのか想像できないが、"冷たい"なんてものではなく、重度の凍傷の危険が十分ある。
そういう一刻もあらそう時にマスコミから受けた遭難の取材(実際に私はその時のインタビューをTVで見たが)のことも書かれていて、思わず、ニヤリとしてしまった。
「あの人ならそれ位のこと(川の中を数日間、歩き続ける)はできるだろうな」と思っていたが、実は、この本のおかげで、私にとって、国内での彼の記録の中で一番好きな奥鐘山西壁ルート冬季初登攀時(1973年2月)に、重廣恒夫氏と厳冬の黒部川を運動靴で遡行していたことを初めて知った。厳冬の黒部川を運動靴で遡行。しかも太腿まである深さを一時間強。[E:shock]
余談だが、山の本を読むと現地まで行きたくなる。よって小西政継さんの時はマッターホルン北壁を見にツェルマットまで、黒部奥鐘山を見たくて欅平~祖母谷温泉まで。
 遭難騒動の時は中日新聞の後ろの方に「広島○○の会の××、○○、高見和成さんが遭難」という小さな記事だった。新聞でこの報道を見た時、「えっ。まさか」と大きな声を出してしまうほど驚いた。
あの"高見和成"が本拠地の伯耆大山で遭難? 信じられなかったことと、高見和成さんが何者なのかを最初の報道で伝えなかった新聞に対して、"岳人"を発行している中日新聞でもそうなのかと、そっちの方が気になった。
この「雪の谷 山の声」では別の発見もあった。あのナムチャバルワ(といっても一部の人にしかわからないが)1991年の第一回遠征の時に、NHKスペシャルの放映の中で「大黄(ダイオウ)」の大群生を発見して無邪気に喜ぶ高見さんを見た。その大はしゃぎの理由がわかったこと。
ナムチャバルワ第一回遠征は、残念ながら登頂はできなかったが、1982年のチョゴリ北稜以来、久々のヒマラヤでの活躍をファンとして大変、嬉しく思った。
 その高見さんが1993年の遭難騒動のあと、5年後の1998年2月同じ伯耆大山の天狗沢で帰らぬ人となったことに大きな衝撃を受けたのでした。
かって、新婚旅行の時に植村直巳さんが眠る"マッキンリー"上空で手を合わせたように、いつかは伯耆大山で高見さんに対してお祈りしたいと思っています。
私は自分の出来ないことが出来る人。知らないことを知っている人に対して憧れ以上のものを持つようです。
ちなみに、ハイキング程度で槍ヶ岳や奥穂高岳なんかを歩いたが、岩壁登攀とかは無縁。穂高岳山荘裏の鎖場や槍の穂先程度でもビビッてしまう小心者。
Photo_2 でも、山の本を読むとルート名が沢山出てきて、少しは勉強しなければと思い、こんな本を購入してルートの勉強とかしてました。
もう一度、繰り返すが、こういうルートの勉強は「少しでも本の中身を理解したい」というもので、自分自身が岩を攀じ登ったり、厳冬の川を遡ったり、深雪をラッセルしたりするという趣味も体力もありません。
なんと言っても高い場所が怖い。[E:crying]
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