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岐阜県関ヶ原~垂井まで東西軍陣地周遊。今回の目的は「松平忠吉・井伊直政(東軍)の抜け駆けと福島正則の位置関係の確認」

 この記事の前に当日の関ケ原関係記事があります
関ケ原駅前観光交流館(岐阜県関ケ原町)訪問記
関ヶ原歴史民族資料館(岐阜県関ケ原町)訪問記
関ヶ原歴史民族資料館ミュージアムショップ。胆の毒

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 ということで、交流館や資料館で概要を同行家人に理解してもらい、腹ごしらえをしたので陣地を周遊。

以下、石高や兵力は「日本戦史関原役」データより抜粋微修正。

 (画像はすべてクリックで拡大表示)

↓ 先陣ルートと抜け駆けルート。点線は家康の移動

  まずは今回の目的「松平忠吉・井伊直政(東軍)の抜け駆けと福島正則の位置関係の確認」するために「松平忠吉・井伊直政」の陣地から。

③松平忠吉10万石・井伊直政12万石(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原


 松平忠吉は家康の四男で東条松平家当主。2代将軍徳川秀忠とは同母。また、同行している徳川四天王の一人である井伊直正は忠吉の岳父であり、忠吉の初陣を後見する形で同行している。兵力は忠吉が3,000人で直政が3,600人。
三成憎しのあまり、家康についた正則は小山評定での活躍もあって、与えられた名誉は「先陣の誉れ」。秀吉恩顧の武将である正則に負けじとばかりに抜け駆けしたのは、徳川譜代の代表者として遅参の徳川秀忠に代わって手柄を取りたいという思いもあったはず。
初陣ながら忠吉は島津豊久を討ち取るが、かの“島津の退き口”の攻防で自らも負傷し、その傷の影響もあり7年後に死亡。戦後、忠吉は左近衛中将に任官され、清洲52万石。抜け駆けという軍規違反を犯しながらもこの栄誉ということで、「内々の家康指示説」がある。
合戦後、直政は近江彦根18万石。直政を徳川に配した養母の直虎(次郎法師が女城主だったとして)も草葉の陰でさぞ喜んでおりましょう。
◇東首塚
関ヶ原の領主であり、合戦にも参軍した竹中重門が埋葬。

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関ヶ原歴史民族資料館
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28
℡0584-43-2665

資料館についてはすでに記事にしています。
関ヶ原歴史民族資料館(岐阜県関ケ原町)訪問記
・関ヶ原歴史民族資料館ミュージアムショップ。胆の毒

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徳川家康 最後陣地256万石(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原959-2
資料館の西側。首実検地。床机場。
最初は桃配山に陣を置くも、合戦の様子がわかりにくいことと、午前の戦いが西軍の意外な頑張りで東軍も苦戦しているため、家康は将兵を鼓舞するためもあって前線に近い場所に移動。
家康は合戦後400万石。

 

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田中吉政10万石(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原918-3
岡崎城主。当初5万7千石だったが、加増に加増で10万石となっていた。
資料館の南西。①のすぐ傍。③の松平忠吉・井伊直政の陣地から宇喜田軍の前に行くには田中吉政の陣地横を通過する必要があるが、田中は気付かなかったのかそれとも見てみぬふりをしたのか。兵力は3,000人。合戦では長政と共に三成を攻める。石田三成を伊吹山で捕縛。この時、三成から吉政に秀吉由来の短刀「石田貞宗」を授ける。合戦後、筑後柳川32万石。ただし、子の忠政は子がなく改易。

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細川忠興18万石(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811−104
兵力5,000人で黒田長政隊と石田三成を攻める。三成に対してはガラシャ(玉子)の弔い合戦ということで気合入りまくり。自分で開発したという「越中頭形兜」姿はさぞやご立派だったこどしょう。
合戦後豊前小倉40万石。

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黒田長政18万石(東軍)
  竹中重門(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原732−16
兵力5,400人。戦闘では石田隊の先陣である島左近を銃撃で負傷させ、退却を余儀なくさせる。
長政は家康から福島正則の説得と小早川の内応を承諾させるなど、合戦前にほぼ勝ちを決定させる働きがあり、家康が長政の手を取り礼を述べたという。
我が家では有名人と握手をすると、私から「その時そちの左手は何をしておった」と聞くのが通例となっている。
合戦後、筑前名島52万石。
面白いのは同陣に布陣した竹中重門。関ヶ原~垂井一帯の領主でいわずと知れた名軍師竹中半兵衛の子。
そうです。黒田官兵衛が荒木村重の凋落に失敗して城に幽閉された際、官兵衛が裏切ったと思い込んだ信長は竹中半兵衛に人質だった黒田長政を殺害するように命じます。
信長の命に逆らってまで竹中半兵衛が守ったのが子である黒田長政。その黒田長政や井伊直政に勧められて当初所属していた西軍から東軍へ鞍替えしたのが竹中重門。関ヶ原では黒田に竹中が救われたのです。
運命を感じますね。
その竹中重門は合戦後に伊吹山で小西行長を捕縛するという手柄を立てます。

岡山烽火場(丸山)
駐車場は住宅街の細い道を進むと数台確保されています。

そこから舗装された竹林の道を進む。アスファルトを持ち上げる竹の根でしょうか、道がボコボコ。標高差25mなので楽勝。
ここからの関ヶ原の景色は格別です。東陣地最高地。
↓ 小早川の松尾山も良く見えます。

 ◇金刀比羅神社

 

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⑥決戦地碑
石田三成陣地から良く見える決戦地の碑。

 

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⑦石田三成19万石(笹尾山)(西軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008
島左近、蒲生郷舎と合わせて兵力は6,900人。

竹矢来・馬防柵が復元されています。“三成に過ぎたるもの”島左近は竹矢来の前で奮戦。黒田軍の鉄砲に撃たれて負傷。
三成は伊吹山に逃れるも捕縛され合戦後斬首。

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笹尾山交流館(冬季休業中)
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1167-1
℡0584-71-7370
定休日 火曜(祝日の場合は翌日)

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島津義弘73万石(西軍)
岐阜県不破郡 関ケ原町関ケ原1961−4
兵力1,588人。戦闘にはほとんど参加しなかったが、大谷・宇喜多・小西の壊滅と三成の敗走のあと、東軍に包囲された島津隊は東軍に向かって退却戦を挑んだ。すなわち「島津の退き口」。
島津隊は正面に配置されていた福島隊に向かって突撃し中央突破。そして寝返りの小早川隊も突破して、松平忠吉・井伊直政・本多忠勝隊の追撃も振り切るすさまじい戦いぶりを見せた。最後は兵力が80人にまで減ったが、島津義弘を生還せることに成功した。
この戦いぶりを間近で見せ付けられた家康はそうとうびびったのではないか(想像)。

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小西行長20万石(西軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4120−6
兵力4,000人(6,000人という説も)。東軍の田中隊、筒井隊と戦闘。キリシタンのため自殺せず、敗走した伊吹山山中で捕縛され斬首。

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宇喜多秀家57万石(天満山)(西軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4146
兵力17,220人。西軍副大将格。五大老。ちなみに剣豪宮本武蔵は宇喜多郡の雑兵。福島正則隊と戦闘。
合戦後八丈島へ流刑。

天満山から合戦地方面を望む↓
 

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大谷吉継5万石(西軍)
岐阜県不破郡関ケ原町山中山中32
吉継・吉治の兵力は合わせて3,100人。吉継は小早川の裏切りを予測していて手元に600人の伏兵を用意済み。松尾山から降りてきた小早川隊15,000人を相手に奮戦。
さらなる脇坂隊等の裏切りには耐え切れず自刃。

 

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平塚為広(1万石)(西軍)
岐阜県不破郡関ケ原町山中32
従五位下。大谷吉継陣よりも敵に近く、当初は藤堂・京極隊と奮戦。その後、小早川隊の裏切りに抗すも小川隊に討取られた(諸説あり)
「君がため捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」。辞世の句。

 

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不破関資料館<承久乱関連>
岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾21-1
℡0584-43-2611

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⑮脇坂安治
(3万石)、小川祐忠(7万石)、赤座直保(2万石)、朽木元綱(2万石)(西軍→東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町藤下
兵力は合わせて4,200人。西軍に属し、松尾山の麓に布陣。戦いを傍観するも、小早川の裏切りを見て大谷隊を攻める。脇坂は本領安堵。赤座は越前今庄1万2千石に改易。小川は平塚為広の首級を挙げるも伊予今治7万石へ改易。朽木は近江朽木谷のまま減封1万石。


↓ 松尾山方面を見る

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⑯小早川秀秋37万石(松尾山)(西軍→東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町山中
 笹尾山からは合戦の全容を確認することができます。合戦当初は西軍が押していたのでそれをリアルタイムで見ている金吾中将の迷いは理解できますね。(伝)では家康の射撃で寝返り(西軍から東軍へ)を決意したというが、いったいどこから小早川陣営に弾を撃ったのかということと、激しい戦闘中にこの弾が家康から撃たれたものだとどうしてわかったのかという疑問は残る。
兵力は15,000人という大軍。これが大谷吉継の横をつくが、動向を疑っていた吉継は前述の通り、伏兵600人を小早川軍に対抗させる。奮戦するも、小早川軍の裏切りを見た脇坂・赤座・朽木軍も裏切ったため、大谷軍は総崩れとなる。
合戦後は備前岡山51万石。

 (画像はすべてクリックで拡大表示)

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⑰福島正則24万石(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町松尾111
兵力は6,000人。家康から先陣の名誉を与えられ、兵力17,000人の宇喜多隊と対峙。

 今回の目的である「松平忠吉・井伊直政(東軍)の抜け駆けと福島正則の位置関係」を見極めるために訪れたが、③の陣地から宇喜田隊へ銃撃戦をしかける位置まで進むには「②田中吉政隊」の横をすり抜けて、尚且つ福島の大部隊の横を通過しなくちゃいけない。いかに家康の子といえども、「そりゃ無茶だな」が私と息子の感想。やはり通説のように家康の内々の指示があったのだろうか。
いずれにせよ、田中吉政の後方に位置しながらの抜け駆けは福島隊の可児才蔵吉長にみつかるよなあと息子ともども納得。
合戦後安芸広島50万石。

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⑱藤堂高虎
(11万石)・京極高知(10万石)(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町関ヶ原井ノ口
兵力は合わせて5,500人。合戦後、藤堂高虎は伊予今治20万石、京極高知は丹後宮津12万3千石に加増。

 

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⑲本多忠勝(10万石)(東軍の軍監)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原3441−67
兵力は500人。場所がわかりにくい。ホームセンター向かいの駐車場(?)から少し東側に入る。幟を目印にすると良い。
合戦には軍監として後方に備えるも“島津の退き口”に応戦。一説によると島津の銃弾が馬にあたり落馬したという。この時、家康と島津の間には何もなく、島津がその気になれば家康を攻めることもできたはずだが、そうはせずに伊勢街道へ一目散。
伊勢桑名へ転封10万石。

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⑳徳川家康256万石(桃配山<承久の乱>関連地)
岐阜県不破郡関ケ原町野上
兵力は3万人。実際に桃配山に登るとわかるが、ここからでは関ヶ原方面の戦いの様子は良くわからないと思う。よって、戦いの最中に家康は①まで進む。

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㉑山内一豊(6万石)(東軍)
岐阜県不破郡関ケ原町野上1390
兵力は2,000人。小山評定で「お城引渡し」を申し出て家康から評価を得たものの、配置は家康本陣の後方で南宮山の毛利の抑えもあるため、戦いの手柄は望めそうにないとあきらめていた。合戦開始後は関ケ原の合戦中心部へ向かい戦闘に加わる。
合戦後、土佐22万石。

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↓ 南宮山周辺の陣地

(画像はすべてクリックで拡大表示)
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㉒浅野幸長(16万石)(東軍)
岐阜県不破郡垂井町(その他)118
兵力は6,500人。合戦後、紀伊和歌山37万6千石に加増。

 

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㉓池田輝政
(15万石)(東軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代244
兵力は4,500人。合戦後、播磨姫路52万石に加増。

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㉔安国寺恵瓊
(6万石)(西軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代1732-1-2
兵力は1,800人。合戦後、捕らえられ斬首。

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㉕吉川広家
(14万石)(西軍→東軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代
兵力は3,000人。合戦時の毛利の総大将秀元から先陣を任されていたため他の陣営は吉川が動かない限り戦闘を起こせない。起こせば軍法違反となるため、吉川の戦闘開始を待ったまま終戦。吉川は家康に内応していた。よって出陣を周囲の西軍諸侯に促されるも「霧が濃い」を理由に断り、さらには「これから弁当」という有名な『宰相殿の空弁当』という始末。
当初は周防と長門を加増される予定だったが、毛利本家に遠慮して辞退。合戦後、周防岩国3万石に減封するも後年6万石に。

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㉖毛利秀元
(20万石)(南宮山)(西軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代
兵力は15,000人。秀元は長門府中5万石に減封。
西軍総大将の毛利輝元は112万石から萩周防30万石に減封され、その後出家。

 (画像はすべてクリックで拡大表示)

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㉗長束正家
(5万石“12万石説もある”)(西軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代1401
兵力1,500人。当初、先陣を希望するが、吉川の希望で先陣を譲る。合戦前に浅野隊と交戦。池田隊とも銃撃戦を展開するも、積極的な行動はおこせず、近江水口へ撤退後切腹。

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㉘長宗我部盛親
(22万石)(栗原山)(西軍)
岐阜県不破郡垂井町宮代1471
布陣のみで終わるが、退却時に金屋川(養老町)で追撃してきた東軍(徳永、市橋、横井)と一戦交える。
合戦後、改易。

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◆資料集

 ◆壬申の乱に関する資料

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