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武田信玄最後の城攻めがあった野田城址(愛知県新城市)

旅行記, 趣味その他|2011/12/18 posted.
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1本目ははこの記事
・武田信玄最後の城攻めがあった野田城址(愛知県新城市)
2本目は
・工事名称「一宮玉ノ井複合商業施設計画」。大店立地届出名称「(仮称)木曽川玉ノ井商業施設」<マックスバリュとケーヨーD2>(part7)(愛知県一宮市)
3本目は
【備忘録】新店・改装オープン 注目情報12/18
4本目はこの記事
【備忘録別冊12/18】新店・改装週間覚書

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野田城址
愛知県新城市豊島字本城 地内
新城市指定史跡

◆野田城攻め

 三方が原の戦い(1572年・元亀3年12月)で徳川家康に戦勝した武田信玄が、翌1573年(元亀4年)1月に三河の野田城へ出撃。
迎え撃つのは徳川家康側の菅沼定盈(さだみつ)。家康の腹心 松平忠正と合わせて総勢400名。
武田軍は約2ケ月に渡って攻めるも、なかなか野田城は落ちない。天然の要塞である野田城を攻めあぐねた武田信玄は甲州金堀衆を使い、坑道を掘ることによって城内の井戸水を抜くという作戦をとった。
城内の水を絶たれた菅沼定盈は徳川軍の援軍もなく降伏することに。

野田城に入った武田信玄であるが、病状が悪化したため、3月には甲斐にむけて撤退を開始。途中、駒場宿(長野県下伊那郡阿智村)にて死亡。享年53歳。遺体は駒場宿にある長岳寺にて火葬された。「(信玄の死を)3年秘密にするよう」に勝頼につげたのもこの時。

 そういった史実以外に、この野田城には別の信玄にまつわる秘話が伝えられています。
菅沼家に伝わる「菅沼家譜」に、笛の名人村松芳休が毎夜、笛を吹いていたところ、聞きほれた武田軍の兵士も毎夜聞いていたという。ある夜、菅沼方の鳥居三左衛門が武田軍が聞いていると予測した場所に向かって鉄砲を撃つと、手ごたえがあったという。
その時、撃たれたのが武田信玄本人であった。その傷がもとで、信玄が死ぬという話。
(黒澤明監督の影武者はこの説を採用)
城と向かい合う崖の上には信玄が撃たれたと伝えられる「笛聞場」がある。
ちなみに、この時、信玄を撃ったとされる「信玄砲」を数年前に設楽原歴史資料館で見た記憶があります。
Photo_4

●野田城址前
20111211

●二の丸跡と三の丸跡
Photo_3

●本丸跡と石碑
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