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「雪に生きる」 猪谷六合雄さん

趣味その他|2008/07/24 posted.

 猪谷六合雄(くにお)1943年著。写真は1985年ベースボールマガジン社の復刻版。
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 20年位前に「山と渓谷」に掲載された記事で知りました。
猪谷千春さんのお父さんです。猪谷千春さんは1956年コルティナダンベッツォ五輪で回転銀メダルを取ったIOC委員の千春さん。
 猪谷六合雄さんは達人です。
スキー板を作る。家を作る。靴下を作る。メダリストを作る。黎明期のスキー技術を作る。全部、手作りでコツコツと製作してきました。
 家の設計図や靴下の設計図(?)なんか、そりゃ几帳面で研究熱心な六合雄さんならではの緻密で合理的なものでした。
 群馬県赤城山から千島へ移住し、さらに雪を求めて、乗鞍、青森、志賀高原へ。
19911009 私は乗鞍の番所(地元の方は「ばんどこ」と呼ぶらしい)時代の話が好きです。
乗鞍高原が大好きなこともありますが、特に千春さんが1938年12月鈴蘭スラローム大会で大人に混じって入賞したということを本当に嬉しそうに 書いていたのが印象的。
 山を開いて、スキーの練習場を作るという、現在では出来そうにないことを自分達の手作りで、しかもお金をできるだけかけずにコツコツと成し遂げる。
その開いたゲレンデは今の「いがやスキー場」あたりにあったそうです。
夏はスキー場にあるレストランで名物のチーズフォンデュを食したことはありますが、残念ながら冬は、もう少し奥の乗鞍高原スキー場でしか滑ったことありません。
この乗鞍のスキー場は長野県側の鈴蘭高原に開発されているのですが、「快適なスキー場」とはいえない作りでした(私が通っていた1980年~1990代当時)。
六合雄さんはその乗鞍のスキー場開発についても著書で言及しています。「環境に配慮」ということを除けば、すばらしい開発計画だと思います。
 乗鞍高原は2003年よりマイカー規制が設けられていますが、それ以前は長野県側の乗鞍エコーラインからは無料で頂上まで行くことができました。
198308293103 このエコーラインは1962年(陸上自衛隊が工事)開通ですが、ふもとから見ると乗鞍岳中腹を横切るように道路が開かれているのを見ることができます。
私が最初に行った1983年(左の写真)の頃はデコボコのひどい道路だったんですが、最近の写真を見ると、かなり整備されたようですね。
その中腹のちょっと下あたりの「位ケ原」というあたりまでスキー場が開発されていますが、六合雄さんの構想はそこから夏スキーができる畳平下の大雪渓までの大がかりなものでした。
 スキー好きにとってはありがたいことですが、現在の環境への配慮のご時世から思うに開発はしないでよかったんではないかと思っています。

 六合雄さんの移住暦
1.  39歳国後 古丹消(1929年)・・千春氏誕生(1931年)
2.  45歳赤城山へ帰る(1935年)
3.  49歳乗鞍番所(1939年)
4.  53歳青森浅虫(1943年)・・・千春中学校入学のため
5.  55歳青森要目(1945年)・・・温泉
6.  59歳長野志賀丸池(1949年)・・パラレルスキー学校(1951年)
7.  73歳車で暮らす(1963年以降)
 
 雪を求めて、雪に暮らした人生です。あこがれるが真似のできない生活。
雪に生きる」。
この人の本を読んで、本気で長野移住を考えた時期がありました。
実現できませんでしたが。
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千春さんの番所時代(「山に生きる」より)
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乗鞍の夏1991年夏。右側中腹にエコーラインが通っているのがわかる。
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位ヶ原から見た乗鞍(冬)
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志賀高原の猪谷記念館(1990年代に一度訪問)
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靴下の編み物設計図
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乗鞍スキー場リフト券(1989年当時)
・この頃、毎週どっかのスキー場へ行っていました。
 3/11と3/21の間にも「野麦峠スキー場」のリフト券が残ってました。

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