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巴川平地分水点(愛知県新城市)分水嶺との違い。谷中分水界,中央分水界,大陸分水嶺,内陸環状分水嶺,平行流間分水界,水別れ,豊川水系巴川,矢作川水系巴川,「三河」の由来が「矢作川、豊川、男川」とは限らず、由来不明であるという説。

(2020年4月の愛知県緊急事態宣言前の訪問記事です)

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巴川平地分水点(巴川・矢作川・豊川・乙川・男川)
新城市作手清岳

 平地に分水点があるのは日本でも珍しく、南流は豊川水系巴川、北流は矢作川水系巴川と呼ばれ両河川とも源流の巴山にちなみ「巴」の名がついている。


↓ 南流は豊川水系巴川(中央が分水点)

↓ 北流は矢作川水系巴川

分水の形として、このように一つの谷の中の分水界(降雨が分かれる境界)を谷中分水界と呼ぶ。

ちなみに、そのほかの形区分は「水中分水(ひとつの沢や川が異なる河川にわかれるところ)」「平行流間分水界(異なる川が同じ方向に隣り合って平行に流れている間)」がある。

 「分水嶺」は山岳地における分水界で、水は高いところから低いところへ流れるという自然な形。
地点は稜線にほほ一致する。

律令国または令制国においては、分水界を境として国境が分かれていることが多い。
稜線を境とすることは異論は生まれることは少ないが、平地の分水界は話がややこしい。
増水する度に河川の流れが変化するためで、これが統治者の悩みの種であったが、近年の河川整備のおかげで河川の流れが変わって境界紛争は聞かなくなった。

 日本の分水界として「中央分水界(中央分水嶺)」がある。

日本列島の場合、太平洋側と日本海側に分ける大分水界(嶺)の連続線で、宗谷岬(北海道)から佐多岬(鹿児島県)までの1本の線をいう。

 これがアメリカ大陸の場合、「大陸分水嶺」といい、太平洋と大西洋という異なる“洋”で区分する。
アジア大陸やアフリカ大陸、北米大陸には海洋に流れ込まない河川が存在するため、そのような場合は「内陸環状分水嶺」に分類される。

 日本の話に戻すが、「中央分水界(中央分水嶺)」は以下の様な1本の線で日本海と太平洋を分けている。
フリーハンドで書いているので少々、はみだしもあるので「イメージ図」としてとらえていただきたい。

 

↑(フリーハンドで食彩品館.jpが赤ラインを記入したのでかなりいいかげんです。転記・転載禁止でお願いします)

 この中央分水界は日本国勢地図帳分水嶺サミット日本河川水質年鑑で微妙に異なる部分があるが、以下は日本国勢地図帳の河川地図で、同じ太平洋に注ぐ河川についても(日高山脈から襟裳岬まで結ぶ線)を大分水界としているなど、少々、混乱も見られる。

この中央分水界で一番標高が高いのは乗鞍岳で標高3,000mを超えている。
逆に低いところは兵庫県丹波市氷上町石生で標高100m前後で約1.3km弱の分水界が通っています。

この地域は「水別れ」という名称で呼ばれ、瀬戸内海(太平洋に含む)と日本海へ共に70kmの距離で注ぐ。
この場所から瀬戸内海へは高谷川から加古川を経て注ぎ、日本海へは由良川から注ぐが、標高が100mより低い場所を流れているため、仮に、海面上昇が100mあれば、この「水別れ」を中心に本州が分断され、2つの島に分かれることが、現地の「水分れ資料館」で紹介・説明されています。

 ということを念頭に、この「巴川平地分水点(愛知県新城市)」を眺める。
源流は岡崎市と新城市の境の巴山で、そこから流れた水流がこの「巴川平地分水点」で二手(南流と北流)に分かれていることが、この目で確かめることができます。

南流は豊川水系巴川北流は矢作川水系巴川
いずれも巴川で、豊川水系巴川は新城市一色と只持と布里の境で豊川(寒狭川)に合流。
一方の矢作川水系巴川は法河川延長56.4km、流域面積354㎢。豊田市足助町で足助川と合わせ、豊田市渡合町と岡崎市細川町の市境界で矢作川に注ぐ。

ただし、いずれも太平洋ということで、分類は「中分水嶺」。

↑(フリーハンドで食彩品館.jpが河川ラインを記入したので、かなりいいかげんです。転記・転載禁止でお願いします)

 知らないことを知ることができたということで大満足な巴川平地分水点確認でした。

ところで、「三河」の由来を「矢作川、豊川、男川」とする説が有力であるが、巴川平地分水点のことをいろいろと調べているうちに、以下の記述をみかけて、三河の由来が「矢作川、豊川、男川」とは限らないということを知ったので、ついでに覚書。

古い順に名称と記載年代を記すと、
・7世紀~ 三川(古事記・木簡)
       水川(万葉集)
・8世紀~ 参河(木簡)
      三河(安城中心)、(宝飯郡中心)
・8世紀後半~三河(木簡)

 すなわち、もともとは「三川」と表記されていたが、律令体制成立後は「三河」と表記されるようになっている。
この時、現在の西三河を「三河と表記し、東三河は「とされていて、「三河」と普通に表記する時は現在の西三河を指しているので、穂の国の豊川を含めて「三大河川が由来」とするには少々、無理があるのではないかという説も存在することを知る。

 それではなぜ、「三河」の由来を「矢作川、豊川、男川」という説が登場したかというと、時代がぐっと下がり、江戸時代前期の学者である山崎 闇斎(やまざき あんさい)が参河風土記にて三大河説「矢作川、豊川、男川」を唱えたことによる。
そして、これを引用した江戸時代の書籍により、さらに広まったとされる

江戸時代末期になり、先代旧事本紀等(江戸時代に一時期偽書とされたが近年再評価されている)が広く知られるようになり、西三河は三河国造が、東三河は穂国造が治めていて、前述のように、「三河」と表記した場合は現在の西三河地方を指すということもあり、「矢作川、豊川、男川」の三大河川が由来と断言はできないようです。

 男川は乙川と合流し、乙川に名前を変え、岡崎市で矢作川に合流しているので、三河の2大河川は矢作川と豊川であることでもわかるように、ちょっと無理っぽい。

 とはいえ、三河国内(東・西三河)を流れる水系のうち、大きくは矢作川水系と豊川水系にわかれるが、今回の巴川平地分水点(愛知県新城市)の源流は「巴山」であり、その巴山を源流として、豊川水系巴川が豊川・豊橋方面へ、矢作川水系巴川は豊田市を流れ矢作川へ、同じく、巴山を源流とする岡崎市側の乙川・男川が岡崎市を通り矢作川に合流するということでいえば、三河の中央を流れる3つの川ということもいえないではないが。

 結論として、三河の律令体制以前の名称である「三川」の由来は不明であるというのが定説のようです。

今までずっと「三河の由来は矢作川、豊川、男川」説が正しいと思っていた(‘;’)

↓ 古宮城方面

↓ その他画像

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