【大辺路~中辺路2017年春の度その1】
ご存知のように、そして何回も食彩品館.jpで紹介しているように世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されている参拝道は以下の通り。
・中辺路(なかへち)田辺→熊野本宮
・大辺路(おおへち)田辺→紀伊半島海岸線沿い→那智・新宮
・小辺路(こへち)高野山→熊野本宮
・伊勢路(いせじ)
伊勢神宮→七里御浜道→熊野速玉大社,
伊勢神宮→熊野花の窟→本宮道→熊野本宮大社
(画像はすべてクリックで拡大表示)
今回は熊野・那智から串本経由で本州最南端の景色を眺めながら大辺路を回り、田辺市から中辺路ルートで新宮市へ戻るという旅。
中辺路ルートは何回も通過しているが、大辺路は数えるほどしか通過していません。
串本の海中公園まで最初に来たのは15年~程前か。すでに成人した子供たち二人ともまったく覚えていないという。太地で鯨とシャチを見たり、串本海中公園で海ガメを見て喜んでいたのにねぇ。
どれくらい遠いかというと、
・名古屋市からの目安 240分
・大阪市からの目安 165分
・紀伊勝浦と白浜からの目安 約50分~60分
という感じで所用時間が紹介されています。
紀伊半島をJRで周遊すると、三重県側の紀勢本線は新宮駅(和歌山県)を境に三重県方面がJR東海で、和歌山方面がJR西日本の運営に別れています。
尚且つ、JR東海側の紀勢本線は非電化でJR西日本側は直流電化されています。よって、名古屋からは気動車の「南紀」が、和歌山側からは電車の「くろしお」がそれぞれ新宮駅(和歌山県)まで運行されていますが、食彩品館.jpが幼少の頃は天王寺(大阪市)から名古屋駅まで直通で運行されていました。
小学校の頃の社会のテストで「紀勢本線はどことどこの駅か」を答える問題で「名古屋駅と天王寺駅」と回答してしまい、連続100点記録を逃してしまったことがあります。
紀勢本線は「亀山駅と和歌山駅」が正解。
蛇足ながら当時(1960年代)は亀山駅で進行方向が折り返しするようになっていて、急行の椅子は固定式だが、時折、特急くろしお号に乗車した時は座席を一斉に回転させるのが子供心に嬉しかった記憶があります。
とはいえ、特急よりも経済的な理由で急行に乗車することが多く、鉄道博物館で「キハ58」を見るとなんともいえぬ郷愁を感じてしまいます。
その当時の記憶をさらにさかのぼると、新宮駅から名古屋方面よりも、紀伊勝浦方面へ乗車したのが食彩品館.jpの記念すべき最初の鉄道利用でした。蒸気機関車の警笛の音がすさまじく大きく聴こえ、そしてトンネルに入る前は窓を閉めないといけないということを今でも覚えています。
ちなみに紀勢本線の全線開通は昭和34年なので、食彩品館.jpが生まれた後になります。
新宮市三輪崎から自動車道である「那智勝浦新宮道路」を利用すると、那智勝浦町の市屋までが事業化されています。
市屋から太地まではすぐの距離。少し寄り道。
●JR太地駅
和歌山県東牟婁郡太地町森浦248-1
●那智黒総本舗
和歌山県東牟婁郡太地町森浦438
℡0735-59-3900
●落合博満記念館
和歌山県太地町字神の浦1099-5
℡0735-59-3266
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 火曜日
入場料
一般2,000円(消費税込み)
子供6~中学生1,000円(消費税込み)
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太地からは串本を目指して海岸線に沿って国道42号線をドライブ。
途中、寄り道したのは
かっての勝浦オークワの店である下里店。
●オークワ下里店(閉店済)
和歌山県 東牟婁郡那智勝浦町 下里509-1
<ご参考>・2011/08/26オークワ発祥地を探る
ここは来たことないなぁ。雨の中撮影。2011年の水害から復興した店舗です。
●オークワ古座川店
和歌山県東牟婁郡古座川町高池64
℡0735-72-0067
●JAみくまのAコープこざ店
和歌山県東牟婁郡 串本町西向330-1
℡0735-72-1338
●オークワ串本店
和歌山県東牟婁郡串本町串本40-22
℡0735-62-0312
ようやく最初の目的地である「橋杭岩」の話題。橋杭岩訪問は3回目です。
伝説として、弘法大師と天邪鬼が橋杭のある串本から沖の大島までの橋の建設を1日でできるかどうかの賭けをおこなったところ、猛烈なスピードで橋を架ける弘法大師を見て、不利を悟った天邪鬼が鶏の鳴き真似をして夜が明けたとだましたとか。鶏の鳴き声を聞き負けを悟った弘法大師が建設途中で止めてしまったため、橋の杭だけが残されたという。
実際は、もともと泥岩層の間に流紋岩が貫入した岩塊だったものが、泥岩部のみ先に侵食され、硬い部分の岩(石英斑岩)のみが海岸に残されたらしい。その数大小40柱ほど。
干潮時には道路から橋杭岩まで渡る事ができます。周囲の岩は津波によるものではないかということですが、このサイズの石の塊を動かすには連動型の地震による大津波の可能性があるとか。1707年10月に発生した南海トラフの全域にわたるプレート間の断層破壊があったとされる宝永大地震の時の津波ではなかったかと推測されている。
●道の駅 くしもと橋杭岩(はしぐいいわ)
和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川1549番地8
℡0735-62-5755
営業時間
9:00~18:00(10~3月17:00まで)
休館日 無休
駐車台数 45台
大型駐車 6台
バリアフリー駐車 2台
情報コーナー、特産販売所、レストラン
・平成25年4月から供用開始
◇地図を表示する
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この後、JA紀南 AコープVASEOを訪問したのですが、そちらは別途記事をアップ。
続いて串本海中公園
前回(2009年)は前を通過しただけなので 年ぶりとなります。
海がめを眺める。
●串本海中公園
和歌山県 東牟婁郡串本町有田1157
℡0735-62-1122(代表)
~1889年(明治22年)オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです~
~日本人216名を救ったトルコ航空機
イラン・イラク戦争が続いていた、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、トルコ(アンカラ経由イスタンブール)に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
※この事は、あまり日本人に知られていません~
なるほど。ということでこのあたりではトルコのお守りであるナザールボンジュウその他トルコグッズが販売されていますね。
●トルコ記念館
串本町樫野1025-26
℡0735-65-0628
駐車場 84台
営業時間 9時~17時
休業日 年中無休
入場料 500円(小・中・高校生は250円)
・2015/06/04リニューアル
●トルコ軍艦遭難慰霊碑
~1890年(明治23年)、9月16日、大島樫野崎の沖合でトルコ軍艦エルトゥールル号が嵐の中遭難し、乗組員656名のうち587名が還らぬ人となりました。異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建設されたこの慰霊碑では、今も5年ごとに追悼式典が行われています。また串本の姉妹都市であるトルコのメルシン市にも同じ碑が建てられています~
所在地 串本町樫野
アクセス JR紀勢本線串本駅よりバス37分、タクシー20分
駐車場 あり(無料)84台
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